ノンフィクション・ショートショート つばさ ~ JR灘駅(兵庫県神戸市灘区) [街小説]
「・・・機体が完全に停止いたしましても、
乗務員の指示がありますまで、シートベルトはお外しにならないでください・・・。」
15時50分。予定より10分早く、ジェット機は無事空港に着陸した。
神戸は5年振りだろうか。
何年か前の自分では想像がつかないくらいの、最小限の荷物を棚から下ろして、
僕は到着ゲートをくぐり、土産だけがいっぱい詰まったキャリーバッグを受け取った。
時間の余裕があるわけでは決してない。
2泊3日、最終日の朝は朝の8時離陸の飛行機に乗らねばならず、
それでも逢いたい人に逢うために、目一杯の過密スケジュールを組んでしまった。
今回使った神戸便は、8月いっぱいでなくなってしまう。
そう簡単に神戸・関西に立ち寄れることもできなくなるからと、
急遽計画を立てて実施したわけだ。
今の自分なら、それぞれの生活がある人々に合わせて行動できるのも、大きな理由だ。
こんな時間は、こんな僕でも、もうこれからはそうそうなくなるかも知れないし。
小ぶりながらも立派なターミナルの中にある喫煙所で一服したら、
昔よりも間違いなく人で混んでいるポートライナーに乗り、神戸市本土に上陸した。
まず最初に立ち寄るのが、灘駅の集合マンションに住む、60代の男性のお宅だ。
彼とは大学時代に出会った。
小児麻痺のため身体が不自由な方で、
クラブの先輩の紹介で、外出介助のアルバイトを担当した方だ。
彼とも5年振りの再会となる。
彼からは頻繁にメールをいただいてはいたのだが、
僕は失礼ながら、自分自身に余裕がないと、彼のメールに対応できる気力にならない。
彼は大変に頭が良く、僕の何もかもを見透かすような内容のメールを送ってくるからだ。
心の病が相当回復した今ならと、
僕から思い切って再会を希望する連絡を入れたところ、
「国宝になる松江城のお土産を持ってこい」という連絡が入った。
JR灘駅はとても新しく、綺麗な駅ビルになっていた。
ホームそのものは、大学時代に通ったあの頃と全く変わりがないのだが、
この駅にはないと、彼が文句を言っていたエレベーターやエスカレーターも、設置されており、
改札前にはちょっとしたコンビニや飲食店もできていた。
彼と逢うにはエネルギーが要る。
僕は、ハンディを持つ人に対峙することのしんどさを、敏感に感じてしまうからだ。
だから介護職も、長くは続かなかったし、元々そう思いつつもやってみたのだけれど。
駅前の片隅にある灰皿の前で煙草を一本取り出し、
一切の雑念を煙と一緒に吐き出して、よし、と歩き出した。
彼が高齢のお母さまと暮らすマンションは、
大震災で被災し仮設住宅で生活していた住民の方々が移住してきたところである。
どこのニュータウンでもそうだが、年々住民の高齢化が問題となっているところの一つである。
見た目は塗り替えられたマンションに少し迷いながらも、
昔の記憶を頼りに、目的地の号室に辿り付いた。
ドアホンを押すと、お母さまらしい方の声が聞こえてきた。
介護者がコロコロ変わるので、誰が誰なのか分からなくなっているようで、
僕の名前を聞いても、パッと思い浮かばないようだったが、無事に扉を開けていただけた。
山代さんが部屋の奥で、笑顔で出迎えてくれた。
事前に心に決めた通り、僕は彼の元へと、高めのテンションと笑顔で向かった。
僕が彼に選んだのは、松江城のキーホルダーセット。
それと島根名産の板わかめに、
障害のために、遠出がなかなか無理な彼のためにデータをかき集めて現像した、
僕の地元や、旅行の時に撮った日本各地の写真のアルバムも渡した。
終始笑顔が絶えない彼。
自由に動かない身体を精一杯動かして、再会の喜びを表現してくれる。
「おっさんがどうしてもって言うから、頑張って探しましたよ。
どこに付けます? どうせならもう全部付けちゃいましょうか!」
敢えてぶっきらぼうに話しかけて、3つのキーホルダーを彼のセカンドバッグに付けた。
より一層、彼の喜びは大きくなった。
こういう感情を素直に表現するところを、彼はとても気に入ってくれた。
疲れた時は疲れたと、腹が立ったら素直に怒りをぶつけたりと、
絵に描いたような介護とは程遠い態度で、
仕事としては、絶対にこんなことをしてはならないはずなのだ。
しかし、「人間らしい」生き方をしたいと、誰よりも望む彼だったからこそ、
「人間臭い」僕を、とても好きになってくれたのだろう。
こちらが正直、うっとうしくなってしまうくらいなのだけれど。
彼との会話は、ひらがなと数字が書かれている文字板で行う。
相手のいうことは、どんなに早口でも彼は普通に理解できるが、
話せない彼は、その文字板のかなをサインペンで指して、意志表示をする。
元々のコミュニティではない寄り集まりのマンションである宿命だろう。
ここに移り住んでからもう20年近くは経っているけれど、
多分お母さまは、気軽に話せる相手が、きっとそんなにいないのだろう。
相手の状況に関係なく、一方的に話し続けるお母さまに相槌を打ちながらも、
迫ってくる時間を気にしながら、彼の話を聞こうと僕は必死に文字板を持っていた。
「げ・・・ん・・・き・・・・・・か・・・ですか? ええ、僕は大分元気になりましたよ。」
「ま・・・じゃなくって・・・や・・・け・・・でもなくて・・・やせ・・・あぁ、痩せたって?
本当ですよ。もう太るの気にしなくたって、大丈夫なくらいに痩せたじゃないですか!!」
介護するお母さまの負担にならないように、
僕が初めて逢った当時から、彼は体重が増えないように心がけていたのだが、
最近体調を崩したせいか、それとも還暦を過ぎたという年齢のせいなのか、
当時よりも、いや5年前よりも、相当に痩せ細ってしまっていた。
それでも、あくまでも悲壮感ではなく、明るい方向に解釈して、僕は話をしたのだった。
元々滞在計画は30分程度。
それでも可能な限りいようと、15分だけ出発を伸ばすことにした。
まだ山代さんから聞けていないことが、たくさんあるはずだから。
そんな思いと裏腹に、長いブランクのせいだろうか、
前みたいに文字板を上手く、彼の指しやすい位置に置くことができない。
彼の言いたいことに、上手く気付くことができない・・・。
そんなもどかしさを機械的に無視して、時間は刻々と進んでしまう。
それでも彼の表情や全身の表現で、
僕の言っていることが、あながち的外れではないことは、想像ではあるがそう感じた。
そして、出発の時間がとうとうやってきてしまった。
「遺言はありますか!?」
敢えての失礼な言葉に、真意をしっかりと捉えた笑顔で答える彼は、こう指した。
「ま・・・た・・・め・・・ー・・・・・あ、またメールするよってことですか?」
頷いて笑ったその顔は、病み上がりで白くはあったけれど、確かに血色のいい顔だった。
「もちろん、またくださいよ。僕もこれからは、マメに返しますから。
返事が返ってくるってことは、まだ生きているってことですからね!!」
帰り際にお母さまから、「快気祝いだから」とお札を1枚渡された。
どんなに断っても一切受け付けない方なので、
「今回は交通費として、ありがたく頂いておきますね」とポケットに収めた。
後日前述の先輩から、ヤツは大丈夫か? ってメールが山代さんから届いたことを聞いた。
多分一種の「躁」状態であることを、賢い彼は鋭く察知したのだろう。
それでも彼は、その場ではそこに触れることなく、笑顔で僕を見送ってくれた。
やはり彼に逢うのは、エネルギーが要る。
ただ、逢っておいて本当に良かったと思う。
ちょっとハイテンションになり過ぎたけれど、
遠くでいつも心配してくれた人に、少しでも安心してもらえたことだけでも、良かったのだと思う。
少しだけ軽くなったキャリーバッグを、軽快に転がしながら、
僕は次の目的地である三宮に向かった。
2015年5月30日土曜日 18時10分。
残り時間は、あと38時間。
※本文中に「障害」という単語を使わせていただきましたが、
僕自身の考えで、「害」という文字を画一的にマイナスの意味として捉える近年の風潮には
全く賛同していないので、敢えて使わせていただきましたこと、ご理解ご了承願います。
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