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中森明菜「ひらり -SAKURA-」 [My Favorite 中森明菜]

カテゴリ「My Favorite 中森明菜」では、
ボクが小さい頃から、そして現在でも最も好きなシンガー、
中森明菜の楽曲を、紹介していこうと思う。

「ひらり -SAKURA-」
作詞:新藤晴一 作曲:宗本康兵 編曲:宗本康兵、森田"Johnny"貴裕

2016年2月24日発売の51枚目のシングル
「FIXER -WHILE THE WOMEN ARE SLEPPING-」のリードナンバー。
「桜」をタイトルに掲げているだけにバラードもしくはミディアムスローをイメージしたら大間違い。
バリバリのアップテンポなシンセティックサウンドの作品だ。
タイトル曲は2曲目に収録されているので、実質的には両サイドシングルと言えるかと。
オリコンデイリーシングルチャートでは21位~30位を行き来している状況から、
来週の週間チャートはおそらく25位前後で落ち着くだろう。
アルバムからのシングルカットという印象が強い以上、仕方のない状況なのかも知れない。

それでもこの曲をタイムリーに取り上げたのには意味がある。
それは、この数年、いやここ20年くらいの中でのシングルではダントツの完成度だからだ。
中森明菜という稀代のシンガーの最大級の魅力がここに凝縮されているのだ。

作詞を務めた新藤晴一氏はポルノグラフィティのギターであり、
デビュー当時から自らメインで作詞・作曲をしてきたキーマンである。
ボクのこのブログで時々「ハルイチくん」と言っているのが、彼だ。
ちなみに彼が敬愛し交流をしている作詞家に、
長年に渡るヒットメーカーである森雪之丞氏がいる。

とあるネットニュースでは
「中森明菜とポルノグラフィティとの接点は?」といったものがあったのだが、
ボクにとっては昔から感じていた大きな共通点が1つだけあった。

それは「抒情的な歌の世界がそこにあること」。
明菜にはその歌唱法と作品を咀嚼して感情移入できる能力にそれがある。
ポルノの作品、特に新藤氏の描く含みを持たせた詩の世界感、絶妙な言葉選びにそれがある。
声量と音域が大きければ「実力派」と言われる、
また直接的な言葉での内省的な楽曲が名作と呼ばれがちな現代の音楽シーンでは
なかなかウケない。
正直言って「昭和」的な香りがあるのだ。

だがちょっと待て。
「昭和」=「古臭い」と思うなかれ。
あらゆるシンガーによってずっと続いている昭和歌謡のカバーがウケるのは何故だ?
結局「あの頃」の曲のほうが「日本的」であり、
日本人のDNAがそれを求めるからこそ、過去の名作がもてはやされるのではないだろうか。

それなら、カバーではなくそのテイストを持った新作はダメなのか?
そんなことはない。
現実にここに素晴らしいものができあがっているからだ。

作曲・編曲を務める宗本氏は
ポルノグラフィティのサポートメンバーとしても活躍している
実力が注目されている若手キーボーディストであり、
今回の新作を依頼された際、新藤氏が彼女のファンであることを知っていたことから
二人の間を取り持ったのだそうだ。
なるほど。サウンドが「ポルノの曲か?」と一聴で感じたのは、
間違いはなかったということだ。

そしてファンである明菜に対して作品を提供することになった新藤氏の思いは如何ほどのものか。
その思いは歌詞の中に、彼らしい言葉で紡がれている。
ここからはボクの個人的な解釈なので、一つの参考として。

イントロなしで始まる冒頭の歌詞である
「薄い紅の河は流れて」。

これはまさに彼女自身を指しているのではないだろうか。
彼女には「紅色」が一番似合う。
何が起ころうとも、この世界に30年以上流され、流れ続けてきた。

「散るがさだめならが河に落ちゆけ桜よ
 地に落ちて汚れてはいけないの」

新藤氏は「桜」は散って終わるものとは捉えていない。
散り去ってもなお、その花びらは朽ちきるまでは命がある。
中森明菜もまた、そのような音楽生活なのではないだろうか。
満開という最盛期があり、ふとしたことで散ったものの、
あらゆるものと闘い迷いながら、それでも地に落ちることなく、
こうやってまた新たな色をつけようとしている。

「私を待っていて 桜」

これはラストのフレーズ。
彼女からファンへの、
またファンが彼女にそう思っていて欲しいという感情なのではないだろうか。
新藤氏はそれをこの短い言葉に詰め込んだ。そうボクは思っている。

もちろんこれら以外にも「中森明菜」を描いた言葉が、繊細かつ美しく紡がれている。
そんな「明菜にしか歌えない詩」を新藤氏は堂々と提供した。
彼はボクと同年代。
もしかしたら幼い頃にテレビで観ていた、華麗に歌い踊る彼女をイメージしたのかも知れない。
ファンの代表として、長年の思いを存分に込めて
この一曲にぶつけたといっても過言ではないだろう。
彼はポルノグラフィティというロックの形態の中で、
含みを持たせた抒情的な歌を流行りかどうかなど恐れることなく形にして出している。
しかしどうしてもポルノグラフィティという形では表現できないものもある。
それを彼は彼女に託したのではなかろうか。

同じ世界でトップアーティストに登り詰めた、とある一人のファンの夢を実現させる。
ファンを何よりも大事にする彼女にとって、常に新しいものに挑戦し続ける彼女にとって、
これ以上のサポートが果たしてあるだろうか。
そういうものを自分の肌で感じた時の、
中森明菜というシンガーの集中力と瞬発力は半端でない。
それが彼女の他を寄せ付けない圧倒的なパフォーマンスを引き出すのだ。

確かに全盛期の爆発力のあるパワーヴォイスはここにはない。
しかしその全盛期は20代前半。今の彼女は50歳だ。
完璧に同じものを求めること自体がナンセンスではなかろうか。
そもそも50代にしてこのサウンドで
オリジナルの新曲を出している(出せる)シンガーが他にいますか? って話。
カラオケ的な歌はもう素人でも誰でも歌える。
そんな簡単なものではないものがあるからこそ、
彼女は今もなお日本の音楽シーンに存在するのだ。

彼女は今の自分自身が出せる最高のもの、
本人も常々言っていた「歌の世界を演じることは得意」という言葉通りの女優振りを発揮した。
一発では分かりにくいが、2~3回程聴くと微妙な感情表現が随所に散りばめられ、
「歌姫」シリーズで培ったソフトヴォイスだけでなく、
彼女らしい情念を込めた強さも使って随所にアクセントを効かせた抑揚のある歌唱法は、
スリリングなアレンジと絶妙に絡み合っている。
彼女らしい「生きている息遣い」もまた緊迫感のあるスパイスとなっている。

若い息吹を感じる最新のサウンドでありながらも、全く彼女の歌が浮くなんてことはない。
宗本氏は新藤氏、明菜の双方の思いを知っているからこそ、
双方の思いがしっかりと重なるこのアレンジができたのだろうと想像に難くない。

歌手、作詞家、作曲・編曲家が三位一体となって完成したのが、
「桜」といえば咲き誇る美しさと散りゆく儚さを描くスローナンバーが多い中で、
「散ってもなお凛と美しくそこに在り続ける」という、
アップテンポかつドラマティックな異色の「桜」を描いたこの作品だ。

個人的には、この曲をタイトルとしてシングルリリースしたほうが良かったのではと思うのだが、
これもまた色々な大人の事情があるのだろうから、それはいいとしよう。
とにかく、ただのカップリング曲として埋もれさせるには余りにも勿体ない名曲だと、断言しよう。
この良さ、お子ちゃまに果たして分かるかな?
「酸いも甘いも経験した大人に贈る極上の花束ソング」と言えるだろう。
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